vol.9 歌舞伎衣裳の見どころ

「古今先生の奥様は歌舞伎がお好きだと伺いましたので、きょうは人気役者が総出演している舞台のチケットをお持ちしました。どうぞお二人でお楽しみください」こう切り出したのは、編集者の夏目君だ。先日、雑談の中でちらりと漏らした妻の好みを覚えていてくれたようだ。「何だい突然、気味が悪いね」「私は気付いてしまったんですよ。毎日の生活の中で、先生の健康を気づかったり、筆が進むようにと静かな環境を整えておられる奥様にこそ感謝しなければならないことに。というわけで、奥様のお好きな歌舞伎のチケットをお持ちした次第です。お二人でお楽しみください」言いくるめられた気もするが夏目君のいうことにも一理ある。

     
 

ここは素直にいただいておこうか。その日の夜、妻の伊代に私はこう切り出した。「そういえば伊代は、以前から歌舞伎を観に行きたいと話していたね。今度、この歌舞伎を観に行かないかい?」「まぁ、嬉しい。この舞台は特に観に行きたかったんですよ」妻の喜ぶ顔を見るのは嬉しいものだ。ここは素直に夏目君に感謝するか。「ところで、歌舞伎のどんなところに惹かれるんだい?」「そうね。奇想天外の筋書もあれば義理や人情、人生の葛藤、そして恋愛など、登場人物になりきる役者さんの演技も見事ですしね」なるほど、なるほど。「加えて、私はきらびやかな衣裳にも魅かれます。例えば六代目尾上菊五郎が着用した

『黒繻子地正月飾文様傾城打掛(くろしゅすじしょうがつかざりもんようけいせいうちかけ)』は、正月飾りの品々が大胆に描かれていて、それはそれは絢爛なんです」「七代目松本幸四郎が『博多小女郎浪枕』で用いた『黒地呉絽服連地雲龍宝尽文様唐人服』(くろじごろふくれんじうんりゅうたからづくしもんようとうじんふく)は、その名のとおり唐人服の様な衣裳で、海賊の棟梁という役づくりに一役買っていると思います」そうかそうか。「九代目市川團十郎が『大森彦七』で用いた『紫地唐花唐草石畳文繻珍直垂』(むらさきじからはなからくさいしだたみもんしゅちんひたたれ)は、歌舞伎ならではの誇張よりも時代考証に重きを置いて製作されたそうですよ」「あ、忘れてはならない衣裳がもう一着ありました。五代目中村歌右衛門が『伽羅先代萩』の中で乳母の政岡の衣裳として着た『黒繻子地雪持竹南天雀文様打掛』(くろしゅすじゆきたけなんてんもんよううちかけ)は、竹林に雪がしんしんと降り積もった様子を表して、凜とした空気感まで伝わってくるほど見事な細工だと感じます」空でこれだけの知識を披露できるなんて、我が妻とはいえ惚れ直した…、いや見直した。

黒繻子地正月飾文様傾城打掛 黒地呉絽服連地雲龍宝尽文様唐人服     紫地唐花唐草石畳文繻珍直垂 黒繻子地雪持竹南天雀文様打掛
三井記念美術館で開催中の「日本の伝統芸能展」(2016年11月26日〜2017年1月28日)に、三越が所有する歌舞伎の衣裳9点が出展されます。三越は1907年から歌舞伎の衣裳の貸し出し、管理を始めました。ところが関東大震災(1923年)でその多くを焼失してしまったため、翌年から三越衣裳部が自ら製作した衣裳を貸し出すことになりました。また第二次世界大戦後の1946年には、演劇復興のため三越ホールを三越劇場と改名して再開。役者の研鑽の場として、大いに役立ったということです。

「ところで貴方も歌舞伎に興味がおありだったんですね。どんな演目がお好みなんですか?」「いや、私はどちらかというと幕間にいただく弁当の方に興味があって…。そうそう、幕の内弁当の由来を知っているかい? そもそも幕間の時間に食べられるようになったから幕の内弁当といわれるようになったんだよ。それに劇場でいただく酒の旨いこと。あれは何でかねぇ」 「もう、貴方は花より団子そのものなんですね…」

次回の物語も、乞うご期待ください。
「日本の伝統芸能展」にて、歌舞伎衣裳を展示中
<学芸員様インタビュー> 三井記念美術館学芸員 海老澤るりは氏 特別展「日本の伝統芸能展」は国立劇場開場50周年を記念して開催される展覧会です。今回は多種多様な伝統芸能を、「雅楽」「能楽」「歌舞伎」「文楽」「演芸」「琉球芸能・民俗芸能」という6本の柱といたしました。このうち「歌舞伎」では、3つの機関(株式会社三越伊勢丹・国立劇場・早稲田大学演劇博物館)のご協力により、全部で12領の歌舞伎衣裳を展示できました。歌舞伎は上演期間が長いため、歌舞伎衣裳は布地の傷みを避けることができない消耗品のようなものとされています。そのため古い歌舞伎衣裳は、あまり残っていないのが現状です。しかし三越伊勢丹ではたくさんの歌舞伎衣裳を保存され、さらに昭和前期に活躍した名優たちが着用した「由緒衣裳」が現存しており、これらは極めて貴重といえます。歌舞伎衣裳は、派手な舞台裳置に引けを取らない、絢爛豪華で圧倒的な存在感が特徴です。あっと驚くような大胆な構図、金や銀が織りなす重厚感、色とりどりの艶やかな文様…。さらには、衣裳に表されたモチーフで演目や役柄の性格を象徴するものもあります。これほど一点一点が個性を放つ衣裳は珍しいのでないでしょうか。今回の展示作品も、様々なタイプの衣裳があり、衣裳に表された文様、斬新なデザイン、精緻な刺繍の技術などに注目していただければと思います。
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