vol.8 洋風図案家との邂逅

テーブルの上に置かれていた、明治時代から続く三越のPR誌「みつこしタイムス」。それを見つめていた私の口から、誰に言うともなく言葉が飛び出した。「次の新刊本の表紙は、ぜひこの画家さんにお願いしたいなぁ」隣にいた妻の伊代がそれを受け、「杉浦非水さんね? 私も『みつこしタイムス』を見る度、素敵だと思っていたの。私たちの子どもの成長を記録していた『子だから』という育児記録本も、杉浦先生が描かれたのよ」彼女が言うには、杉浦非水氏はアールヌーボーなどの洋風デザインに影響を受け、従来のポスターや冊子の表紙に使われていた意匠とはまったく異なる新しい美を創造した図案家(デザイナー)だとか。

子だから      
 

【 主な登場人物 】 古今三治郎(40歳)ーこの物語の主人公。推理小説家。江戸っ子気質のハイカラ好きで、食べること、飲むことも大好き。 伊代(34歳)ー三治郎の妻。明るくて活動的。礼儀やしきたりを重んじる。 夏目君(25歳)ー出版社に勤める、三治郎の担当編集者。有能な若手らしいが、少々あわてもの。 確かにどれもこれも斬新で、洒落ている。よほど好きだと思える。いつもは寡黙な伊代が、こと杉浦氏についてしゃべり出したら止まらないではないか。これは伊代のためにも、ぜひ次作では杉浦氏の協力を得たいものだ。夏目君を通じて頼んでみるか。「先生の方から来てくれなんて、珍しいですね。新刊本の原稿が1カ月遅れていますが、ようやく完成しましたか?」「きょう夏目君に来てもらったのは他でもない。その新刊本のことさ。表紙と挿絵を、この人に描いてもらいたいんだ」夏目君に杉浦氏が表紙を描いている「みつこしタイムス」を手渡し、

杉浦氏がいかに素晴らしいか、伊代からの受け売りをそのまま伝えた。「杉浦先生は、『三越』のポスターや宣伝物を数多く手がけられているんですね。確かにどれもこれも、魅力的な図案です。古今先生が表紙をお願いしたいとおっしゃるのも理解できますよ。わかりました、これからご挨拶に伺ってきます!」そしてちょうど1週間後、夏目君が吉報を持って我が家にやってきた。「先生、お喜びください。表紙と挿絵の件、杉浦先生から内諾を得ました。でも杉浦先生は再来月の10日から、ヨーロッパ外遊に出かけられるそうなんですよ。だから古今先生も、残りの原稿をパパッと書き上げてくださいね」「よ〜し、私も男だ! 書くといったら書き上げる! 待ってなさい、夏目君!」「…とかなんとか話されてましたよねぇ、先生。2カ月前は」「すまん、面目ない…」

ポスター     宣伝物

ここは横浜の大さん橋。たった今、杉浦非水氏を乗せた客船がヨーロッパに向けて出港したところだ。「でも、これで良かったのかもしれませんよ。もしも出版されていたら、杉浦先生の本なのか、古今先生の本なのか、わからなくなるところでしたから」「そうか、そういう考え方もあるか! いやぁ、良かった良かった。人間万事塞翁が馬だな」といいつつも伊代の期待に添えず、心で涙を流すのだった…

日本における黎明期の洋風図案(グラフィックデザイン)の第一人者、杉浦非水。三越呉服店専属の新進気鋭の図案家として活躍し、「みつこしタイムス」や「三越」の表紙絵をはじめ、ポスターや宣伝物などを数多く手がけました。生誕140年を迎える今年、改めてその実績が注目されています。
次回の物語も、乞うご期待ください。
日本初の商業デザイナー、杉浦非水

三越はじめて物語 日本で初めて三越が行った取り組みをご紹介します。

画帳「子だから」 明治42年(1909年)
画帳「子だから」について 杉浦非水画 巌谷小波編 明治42(1909)年4月に開催された第1回「児童博覧会」(※)を記念して三越から発売され、その後6月1日に「子だから」と題して限定販売(2,000部)しました。  「子だから」は、子どもが誕生してから7歳になるまでの、愛児の成長記録と写真アルバムをかねた全100ページ余の画帳です。児童文学者であり、同時に三越の顧問を務めていた巌谷小波氏が編集にあたり、表紙はじめ全ページを杉浦非水氏が装丁し、さらに挿絵も手がけました。アート紙に石版カラー印刷、表紙には友禅染の縮緬(ちりめん)を使用するという豪華なつくりで、定価5円という高値にも関わらず、出産祝いの進物などに利用されて好評を得ました。  ※児童博覧会 児童の生活文化への関心の高まりを背景に、「流行研究会」(通称・流行会。明治38(1905)年結成。PR誌「時好」寄稿者を中心に、有識者、文芸家などを集めて、衣裳、調度などの流行、壮行会風俗の傾向などを研究討議し、三越にアドバイスしてもらう研究会)の提案によって開催された博覧会で、大正4(1915)年までの間に計7回開催されました。
 
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